• Go to Menu
  • RSS

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

Scissors Bird in the World's Groove


Round Sign

 友人のスタイリストに髪を切ってもらった。髪を切る時、鋏は「チョキ、チョキ」とは鳴かない。「シュル、シュル」と鳴く。幾つもの細い繊維を束ねて切断する。軽い髪の抵抗と切れ味の良い鋏が生み出す音は何とも心地よい。時々肌にあたる彼女の清潔な指も、頭を撫でられているようでついまどろんでしまう。どこを見るわけでもなく、眠るでもなく、無になっていく。
 「じー…」
 これって一種のメディテーション(瞑想)なのでは?
 ただしカットはいつまでもつづくわけでもなく、その名の通り切れてしまう。終わりがあるのだ。今日も1時間ほどで内宇宙の旅は終わった。

Sunday Park

 短くしてもらったので、頭が軽く感じるのは当然かもしれないが、それ以外にも何か効果があるように思える。解毒したような、どこかふんわり浮いているような、気持ちいい感じ。

 「シュル、シュル」独特のリズムで鳥の囁きのように鳴く鋏。心地よい反復はリラックスをもたらしてくれる。ドラムのように正確なリズムを繰り返すでもなく、呼吸のようにある程度のゆとりのあるリズム。ずれたり、早くなったり、遅くなったり。
 「シュル、シュル」もしくはそれは4小節の繰り返しではなく、何百、何千、何万小節で初めて一つのループが形成されるとか。もっと言えば何十年、何百年単位でのリングなのか。我々は偉大で巨大ですんごい法則のもと生み出されているワールド・グルーヴを感じているのかもしれないね。

スポンサーサイト

時を超えてきた漫画


ウルトラへヴン第3巻

「ウルトラへヴン3巻」が
ついに発売された。4年振り(!)の新刊発売。

 お気に入りの漫画「ウルトラへヴン3巻」がついに発売された。4年振り(!)の新刊発売。絶妙なシーンで終了した2巻からずっと次回作への期待と不安、自分なりの今後の展開を想像しては興奮に胸を膨らましていたが、一瞬にしてそれが吹き飛んでしまった。あれから4年経っているにも関わらず、2巻の終了シーンまで自分の体内時計がさかのぼってしまったのだ。まるで4年間の空白が無かったように。
 4年も経っての再開となれば絵が少し変わったり、妙なテンションで始まったりなど、どうしても力みが入ったり、若干チグハグするのが人間だと思うのだが、作者の小池桂一さんは4年前と変わらないテンションだ。全く変わらない。読み手もそういった過剰な期待も無く、何も無かったかのように読んでいる。読み終わった後、少し怖くなった。本当にあれから4年経ったのか?と。


LOVE

 この4年僕を取り巻く様々な出来事が起こっては消え、また起こってと繰り返して来た。しかしこの「ウルトラへヴン」と僕の関係にいたってはそれが作用しないようだ。インタ-ネットで「ウルトラへヴン」と検索し、連載再開・新刊発売のニュースを探しまくった日々も無しになってしまった。「ウルトラへヴン3巻」は時を超えてやって来たようだ。
 内容も精神世界とかペーパードラッグとうたわれている。漫画の内容と現実を取り巻く状況のシンクロ率が高いと言うか、とにかく読み終わった後、少し怖くなった。本当にあれから4年経ったのか?と。


beautiful boy


時計

全く別人のように成長してしまう赤ちゃん。
時の流れってすごいなぁ・・・

 久々に大阪の友人と会った。前まで這う事もできなかった彼の息子がよちよちながらも2足歩行し、家中を駆け回っていた。面影はあるもののその成長の速度に思わず別人かと思った。
 彼の声、言葉は美しい。「あうあう」と何かを訴えかけてくるが、まだはっきりとした日本語は話せない。しかしその音の響きが美しく、うっとりとしてしまう。その声が聞きたい為にこちらも思いっきりかわいがる。親としては当然話せるようになり、彼との意思の疎通を図りたいところだと思うが、僕としてはこの美しい音色を失うのも少しもったいない気がした。心にまで届くこのマジカルな言葉は成長とともに失われる。儚いが故に美しいのか。


赤ちゃん

彼の声、言葉は美しい。

 声に関して、次の喪失の季節は変声期のあたりだろう。今まで歌えた曲の高音域が歌えなくなったり、裏声が濁って来たりといろいろがっかりしたものだ。高い声を失った僕の声ときたら、大人の渋さもなく、まだまだ安定していない中途半端な音域で発声されている。
 とにかく久しぶりにピュアで美しい声を聞いたので、すっかり癒された。キラリーン☆


伝わることと失った体力


1号線

展示会場のある日本橋。
国道1号線が通っている。

 友人の誘いで「微笑みの降る星」 長倉洋海写真展を見に行った。展示数も多く、たっぷり楽しめる。サイズも大きくて迫力がある。こういうのを見るとやはり作品を見に足を運ぶのは大切だと思う。
 写真にも感動したが、2点発見したことがある。
 一つはタイトルの付け方。長倉さんは報道カメラマンでもあったため、写真を通して情報を伝えるという大前提があった。そのためかどうかはわからないが、タイトルにありがちな「静寂」や「希望」などのような詩的なものではなく、「●●で▲▲だが、■■である少年」のようにかなり具体的なタイトルがほとんどだ。最初に写真の絵に引き込まれ、見ているうちにいろいろな不思議や興味がわいてくる。ふっと下を見るとタイトルがある。再び顔を持ち上げるとさっきとは違った風景がそこにある。まるでその場にいるような、写真の世界に自分が立っているのだ。
 具体的なタイトルでより多くのバックグラウンドを知り、独りよがりなアートではなく、より伝わり、共有し感動する。何か大切なものを教わったような気がする。


高層ビル

日本橋は重厚な歴史的建造物と
近代的な高層ビルが共存する

 もう一つは子供たちの笑顔だ。めちゃめちゃ笑っている。ただ笑っているのではない。めちゃめちゃ笑っているのだ。今あんなに笑うことができるのだろうか。今だっておかしいことやハッピーなことがあるとその度に笑ったりするが、この子たちのように笑うことができない。何かに感じ入り、そこに入るための鍵とそれほどにまで笑えるだけの体力を失ったのではないかと思う。
 子供たちの写真を見ながら、幼いころの僕の兄弟とのやり取りを思い出していた。どれも大したことではないのだが、何であんなにめちゃめちゃ笑ったのだろう。



上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。